Memento Mori
2021.08.16 お知らせCOOのFです。
最近、‘‘死‘‘について考えさせられる出来事が立て続けに起きました。
皆さんは、‘‘死‘‘についてどれくらい考えていますか?
また、そのことを大切な人と共有していますか?
‘‘死‘‘について考えるというと、とても哲学的で難しい印象を持ってしまうかもしれませんが、入り口のテーマとしては以下の2つがよいのではないかと思います。
(A)どんな状態になれば、積極的な延命を中止するか
(B)人生の最期の時間をどこで過ごしたいか
(A)については、科学技術の進歩により治療制度の高い抗がん剤が多く上市されています。このことは、延命治療の選択肢の増加も意味しますし、今後も新たな抗がん剤の開発ラッシュは続くと予想します。どんな状態であっても、(例えば、平均寿命を超えていて、口からは食べられない方など)数千万円/年の抗がん剤で数ヶ月の延命をすることが‘‘是‘‘なのでしょうか?
そんなことを言うと命を選別するのかとお叱りを受けそうですが、生命の循環・流れの中で生きている、限りある資源を次世代に残すという観点で考えると、そこまで不謹慎な考えでもない気が個人的にはしています。
欧米では、口から物が食べられなくなった時点で‘‘死‘‘の状態であるという認識を多くの人が持っているようです。
(B)については、日本では、50%を超える方が人生の最期を自宅で過ごすことを望んでいるようです。
(https://www.nippon-foundation.or.jp/who/news/pr/2021/20210329-55543.html)
一方で80%を超える人が病院で人生の最期の瞬間を迎えているという現実があります。因みに、他の国の病院で最後を迎える割合に目を向けると、スウェーデン42%、オランダ35%、フランス58%です。
(https://www.mhlw.go.jp/file/05-Shingikai-12404000-Hokenkyoku-Iryouka/0000156003.pdf)
病院での死亡率が高い理由の1つには、(A)についてしっかりと主に家族内で話し合いがなされていないことが挙げられると聞いたことがあります。いきなり、癌のレイトステージであると告知され、家族があたふた・・・みたいなイメージです。(もちろん、そうなる気持ちも分かりますし、自身が当事者になったときにどう立ち回れるかなんて分からないので偉そうには言えませんが。)
‘‘死‘‘についての考えを巡らせ、周囲の方と共有した結果、「どんな形であれ、生きていることこそに意味がある。(だから最後まで積極的に延命をする)」「自宅で最期を迎えるなんて、生きることを諦めたみたいで嫌だ。」という考えに至ったのであれば、それはそれで全然構わないと思います。(国民皆保険の維持という観点は省いた上で。)ですが、そういった‘‘死を考える機会‘‘というのが圧倒的に少ないように自身には思えてならないのです。死について話し合う機会を持つ人が増えれば増えるほど、自宅での最期を望み、それに向けた心の準備も物理的な準備も出来る人が増えると考えます。そのことは、積極的治療の呪縛から解放ひいては、日本における国民皆保険の持続性を担保することに繋がるでしょう。(別に国民皆保険維持のために‘‘死‘‘について考えようと言っている訳ではありません。)
自宅で最期を、それも苦痛を最小限にし、穏やかに過ごせるように奮闘されている医師、看護師、介護職などの医療従事者の懸命さには頭が下がる思いです。
そういった医療従事者のおかげで、安心して自宅で最期を迎える環境は整ってきていることは間違いありません。
医療の質はサービスの提供だけではなく、受益者側の意識改革が重要というのが僕の持論です。
これだけ不平等な世の中において、ほぼ唯一といってよい程、平等に全ての人に与えられるもの、それが‘‘死‘‘ではないでしょうか。自身や大切な人の‘‘死‘‘について考え、共有してみることをお勧めします。
それは、きっと‘‘今をどう生きるか‘‘を考えることにも通ずるはずです。