越境のすゝめ

2021.04.13 マガジン

今回の文章は
’’まだまだ自分を生きられていないな‘‘
と感じている方に向けたものです。
僕が僕自身に向けて書く文章でもあります。

今回は、最近耳にすることが多くなった‘‘越境‘‘について私見も含め書きたいと思います。

越境とは?
辞書には、このように書かれています。

境界線や国境を超えること

そのままですね。
我々の周りには多くの境界線が存在します。

A社の社員であることは、B社の社員ではない。
経理部所属であることは、人事部所属ではない。

といった意味で境界線が表れます。

人間は変化を嫌い、放っておくと自身のComfort Zoneに止まろうとする生き物だと思っています。(これは、性悪説ではなく、性弱説と認識しています。)

そんな人間ばかりではない、と思ったあなたが思い浮かべた人物は、Comfort Zoneを抜けて挑戦することが人生を豊かにしてくれることを体感済みの人なのでしょう。(ですが、おそらくそんな人は日本の全人口比率から考えると圧倒的に少数派です。残念ながら。)

話を越境に戻します。

越境とはこのComfort Zoneを抜けることに近い感覚なのではないかと思っています。

所属している企業・部署、いつも付き合いのある仲間、そこから抜け出してみて初めて気付けることが多いのではないでしょうか。(逆に言えば、長く同じコミュニティに属し、同じ行動をしていては、当然、視野狭窄に陥りますよね・・・)

そして、そんな越境をしたことによる気付きが、元々いる場所での活動にもプラスに作用することが論文などでも報告されています。

では、なぜ今の時代になって‘‘越境‘‘という言葉にスポットライトが当たっているのでしょうか?

その理由の1つに、時代の流れとして、徐々に権威が形骸化し、組織の為に生きるのではなく、個を生きることが以前よりは容易になってきていることが挙げられると考えます。(広告費がTV局から、人気YouTuberに流れていることは最たる例かと思います。)

これは、間違いなくSNSなどのテクノロジーの進歩が寄与した結果ですね。もちろん副作用はあるでしょうが、大半の人にとってメリットがデメリットを大きく上回ると感じています。

個を生きるということは、1つの組織やコミュニティに所属し続けるのではなく、越境し自身の生きがいや目的のために複数の組織やコミュニティに所属していることとほぼ同義であると考えます。

組織の為に生きるのではなく、個を生きることが出来る社会は今よりも精神的に豊かな社会であると考えます。
多くの人が個を生きることが出来る社会が10年後に来るのか、100年後に来るのかそれは分かりません。

逆説的ではありますが、越境を体験する人が増えれば増えるほど、豊かな社会の到来を早められるという確信が僕にはあります。

そんな未来に想いを馳せながら、少し自身の生き方の舵を、これまでの常識の範囲で思い描いていた航路とは違う方向に切ってみるのはどうでしょうか。

勇気もいるし、時には痛みを伴うこともあるかもしれませんが、一人一人が少しだけ勇気を出すことで社会を今よりも豊かにする確率を高めてくれることと思います。

来年で初編の刊行から150年を迎える「学問のすゝめ」も当時の日本人の意識構造(封建社会、儒教思想)を変革するために福沢諭吉氏によって書かれたものですが、今は正に大きく意識構造の変革を迫られている時代の転換点ではないでしょうか。

日本を物質的に豊かにして頂いた先達や過去の社会システムに敬意を払いつつ、次の時代に向け一歩を踏み出していきたいものです。