愛とはなんぞや
2021.04.27 お知らせこんにちは。COOのFです。
このブログはメンバーよりお題をもらい書かせていただいていることが多いのですが、
今回はCSOのNさんより”愛とはなんぞや”というお題を頂きました。
無邪気に愛だ恋だということを口にするほど若くはないし、
かといって「愛とはつまり〜」と言うほどには人生経験を積んでいない
中途半端な年齢の僕にとっては難しいお題です。
ですが、いつまでも「愛を語るより口づけをかわそう」というスタンスでもいられませんので語っていきましょう。
最近では、自分を愛するということの重要性もちらほらと耳にするのですが、
まだ僕の中では、
”自分を大切にする感覚”
と
”他者に向ける愛、それと同等のものを自分に向ける感覚”
が一致しません。
考えが古いのかも知れませんが、まだまだ、愛とは自身に向けられるものというよりも、他者に向けられる(もしくは他者から受け取るもの)という色合いが強いものと認識しております。
カップルや夫婦の間に成立する、分かりやすい愛の表現を除き、
愛の送り手と愛の受け手がいるとすれば、それぞれが無意識に送り手に、あるいは受け手になっているケースも一定数存在するのではないでしょうか。
このことが「愛とはつまり〜」と語ることを難しくしている要因の1つではないかと考えています。
愛は送り手でもなく受け手でもない第三者の介入により顕在化させられたり、
真意を知ることによりそれが愛であることに気付いたりします。
愛はいつも愛然とした態度で僕たちの目の前に現れてくれる訳ではありません。
目の前の”愛”と名のつくはずの事象を、愛だと認識出来ぬまま日常は過ぎ去ります。
(大人になって初めて、親の愛情に気づけるといったように時間の経過とともに、愛と認識出来ることもありますね。)
このことを考える題材として、東野圭吾さんの「容疑者Xの献身」について考えてみたいと思います。
原作は2005年に、映画は2008年にリリースされております。有名な作品ですのでご存知の方も多いことでしょう。
(個人的には、珍しく映画が原作を上回った作品です。)
こちらの作品では、数学教師の石神哲哉が、愛する(と言っても、石神の想いは一方通行でありますが)花岡靖子のために罪を犯します。
しかし、花岡靖子はクライマックスまで、石神が罪を犯したことを知りません。
また、石神はこれまで、数学に生涯を捧げ、愛とは無縁の人生を送っていたのですが、花岡靖子との出逢いにより、愛を知ります。(彼女を愛するようになります。)
しかし、花岡靖子は、このことを認識していません。
花岡靖子の存在そのものが、石神に愛を認識させ、また、そのことにより石神は罪をも犯してしまう。(ついでに言うと、本来であれば恋敵とも思われる男性と花岡靖子が結ばれるようアシストをしようとします。更に、自分は花岡靖子のストーカーを演じ・・・)
このストーリーには存在により愛を知る、愛故に行動する、という工程の中で、双方に認識されない愛が存在したのです。
映画なので最後にタネ明かしがあるのですが、現実にはタネを明かされぬままの愛がそこらじゅうに転がっているのだと思います。
あなたの何気ない行動(もしくは存在そのもの)に愛を感じ取ってくれている人がいる一方、あなたに向けられた愛故の行動にも関わらず、それと気づけていないことが沢山あるのでしょう。
ただ、それはそれで良いのだと思います。そう考えると僕たちの想像以上に、この世界は愛に満ちている可能性(映画の中の「可能性を高める」と言う石神が花岡靖子に宛てた手紙の表現に僕は石神らしさを見ました。)が高いのではないでしょうか。
そう思うだけで、少し楽しくなりませんか?
愛とは〜、と断定出来ていないので正確にお題に答えられている訳ではないのですが、その点はご了承下さい。