対話について

2021.05.24 お知らせ

COOのFです。

最近、「対話が重要になってきている」ということを耳にするようになりました。

僕の性格は
「ということは、以前は対話が重要ではなかったの?」
とか
「何で?」
とか
「対話が重要と主張している背景には何があるの?」
とか思ってしまうように出来ています。

ということで今回は対話に関して考えていきたいと思います。

対話が重要になってきている背景は、ここ数十年の社会の発展の在り方に持続性という観点で疑問符がつきだしていることが大きな要因と推測します。

これまでは資本主義に由来する、売上・利益・GDPなど一見分かりやすい項目が成長の(ある意味では分かりやすい)指標として発展が測られてきました。

その代償として、地球環境が毀損されたり、人権(ここでは貧困なども含めた広義の、人が人らしく生きていけることが保証されているか、の問題を人権に含めます。)が置き去りにされたり、企業の不祥事が起きたりと様々な副作用が生じました。

これらの問題を背景に、これまでの社会のコンセンサスとして機能していた、発展の在り方が見直されてきた、さらに(情報の流通コストの低下も促進因子となり)ここに問題を投げかける活動家とその活動が顕在化してきたことが対話の重要性を盛り上げているだと思います。

ここまでは、対話が重要と言われる背景について書いてきましたが、ここからはその理由について掘り下げようと思います。

社会のコンセンサスという言葉を使いましたが、今は社会のコンセンサスをアップデートすべき時期にきています。

アップデートすべきと言っても、これまでの慣れ親しんだ古いシステムや慣習を手放すことは決して容易ではありません。(大半の人間は変化に対して消極的なのだと僕は思っています。良いとか悪いとかではなくそういうものだと思います。)

アップデートの過程で、様々な立場の意見の対立が生じることは不可避です。(対立を経ずにアップデートが出来るはずがありません。)

意見の対立には大きく分けて以下3つがあると言われています。(GLOBIS知見録より)

認識の違い(見ている景色の違い)
考え付く解決策の違い(どうするかの違い)
判断基準の違い(あるべき姿の違い)

これまでは、(認識、考え付く解決策には個々で違いがあれども)判断基準という軸がある程度、明確だったのですが、今は判断基準に揺らぎが生じています。(くどいですが、先進国では成長至上主義から脱却した持続可能な社会システムの構築が必要です。)

ただ、僕は資本主義のすべてが悪だとも思いませんし、グレタさんと違い、飛行機にも乗ります。

明確な基準なき今、それぞれの主観・価値観をぶつけ合い、手触り感をともないながら次の社会システムを構築していくことが求められます。

この過程こそが対話であり、一見遠回りのように思えるかもしれませんが、社会をアップデートする唯一無二の手段と言っても言い過ぎではないでしょう。

これらのことが対話が重要と言われる所以であると考えました。

ここまでの流れだと、今の時代だから対話が必要になったという論調で語ってきましたが、その解釈は間違いであると考えます。

資本主義こそが唯一の社会システムだということに社会として何も疑問を呈さずにここまで来てしまったからこそ、今の状態になってしまったのだと思います。

過去にも警鐘はならされていたのです。

1972年に刊行された『成長の限界(ダイヤモンド社)』や1973年に刊行された『モモ(岩波少年文庫)』は警鐘がならされていたことを現代の我々に教えてくれます。

当時から気付いていた人、警鐘をならしていた(にも拘わらず、真摯に取り合ってもらえなかった)人から「だから言ったんだ。」とお叱りを受けそうですね。

この反省を活かし、今後も対話の重要性を忘れることなく社会をより良い方向に導いていく必要があるのだと思います。